親鸞は、本当は何を言いたかったのか?
『歎異抄』に「噛む(か)まれる」という希有の体験!
「噛むか」、「噛まれるか」、それが問題だ!
『歎異抄』をめぐる異色の提言。
本書の内容………………………
■謎にみちた歎異抄
ドストエフスキーと親鸞
心の闇を徹底的に見つめる親鸞
「罪業深重の凡夫」
歎異抄は希有のヒューマンドキュメント
謎にみちた『歎異抄』
いつ、誰によって、つくられたのか?
著者が託した悲痛なおもいとは?
■私訳歎異抄
■歎異抄・原文
■親鸞の声を聴く 対談 五木寛之×川村湊
デラシネと運命
小説『親鸞』の執筆にあたって
なぜ親鸞が「ワテ」と言うのか
語られた言葉にこそ
唯円と蓮如というフィルター
親鸞の真実はグレーゾーンに
和讃の情感
「宿業」を乗り越える――マイケルとアリの場合
■『歎異抄』関連書一覧
■なぜ、いま、『歎異抄』なのか(著者のことば)
『歎異抄』には、数多く、というより、数限りない入門書や解説書があります。それぞれ真摯な思索と、感動にみちた本ばかりです。
しかし、肝心なところが、どうしてもわからない。だぶん自分に問題があるのだろうと諦めながら、いまひとつすっきりしない。まま、日を重ねてきました。
『歎異抄』には、人の心をぎゅっと素手でつかむような魅力があります。しかし、くり返し読むたびに、わからなくなってくる不思議な本でもあります。
一度そのあたりを正直に検討してみたい、と考えたのが、この文章を書くことになったきっかけです。