騎馬民族の達頭(タルドゥ)、中国名タリシヒコ、
『日本書記』では聖徳太子……
「太子」ではなく「倭王」だった
なぜ天皇として史料に残されなかったのか。
大陸と列島を駆け抜けた生涯を追う!
「七カ国の王」、倭国に足を踏み入れる
騎馬民族の突厥可汗(とつけつかがん)(部族の長)、達頭は東突厥を統合して大可汗となり、五九九年にコンスタンチノープル(イスタンブール)のローマ帝国に親交を求める書簡を送った。その書簡では達頭は「七カ国の王」を名乗っている。達頭はその年の暮れ、明石(あかし)に上陸した。突厥可汗達頭が倭国に一歩、足を踏み入れた時から七世紀が始まり、倭国にとって波乱の一〇〇年間が始まったのだ。
日本国が八世紀の初めから独立国として扱われ、清朝に至るまで朝貢国となっていた半島と違うのは、当時、世界的に有名な達頭可汗が倭王だったせいであると私は考える。(本文から)
■聖徳太子と激動の七世紀
「七カ国の王」を名乗った突厥の達頭は六世紀末、中国史上から忽然(こつぜん)と姿を消す。そして倭国に現われ、倭王となった。この達頭こそ、後に聖徳太子と呼ばれる人物の“正体”である。
聖徳太子は倭王=天皇として即位する条件を兼ね備えていた。にもかかわらず、史書には一言も記されていない。それはなぜなのか。
また達頭とは、そもそも何者なのか。本書では、これまで不詳だった、その出自をも明らかにしていく。
大陸では隋が滅亡して唐が興(おこ)り、半島では高句麗、百済、新羅の三国が割拠。激動の七世紀、聖徳太子こと達頭の生涯を描く。