「どうにもならない事実は受け入れて、誰をも恨まない」
少年期の過酷な社会的差別と経済的困窮の中で
小動物、植物が教えてくれた「フェアなこころ」……。
心優しき教育者が綴(つづ)る「人間とは?」そして「教育とは?」
私が抱く「人生最後のイメージ」/「家族のご飯より書物」だった父/愛犬“無二(むに)”が友であり師だった/「好き」はあらゆる進歩、向上の原動力/開拓集落で農業への思いを募(つの)らせた/「競争型人間」よりは「共生型人間」/「タテ型組織」よりも「フラット型組織」/常識を疑うことから「創造」が始まる/今の教育に欠けているもの
……その原因が私の側にあることだけは感じ取れました。“アカ”の意味が私にはわからなかったのですが、子供心にそのわけを親に聞くと、親を困らせるような気がしたのです。私が辞書を最初に使ったのは“アカ”の意味を調べるためでした。そこには「七色の一つ。青緑の補色」などと書いてありました。「青緑の補色? そんなことで自分が差別されるのか」と不思議に思ったものです。(本文より)
自分の人生を、自分にとって大事だと思える一つの「いのち」を守り通すことで終えられたら、自分にとっては最高です。私は、できたら「このような状況でこのような姿勢で死ねる人間になりたい」、そのために、病気がちで気弱な自分ではあるが、「自分ができることを日々積み重ねていきたい」と、夜寝る前、朝起きた時、特に病気の時、辛い時にイメージしていたのです。(本文より)
自分は競争型人間だと思っている人でも、自分の共生型人間的な部分を農作業を通して発見して驚くことがあります。土や植物に触れることによって、遺伝子として持っていた共生的な感性が発現するのです。とはいっても、私は、「共生型人間」だけを礼賛しているわけではありません。「競争型になりすぎた社会」を、もう少しだけ「共生的な社会」にしたほうがいいと思っているだけです。(本文より)