自力の道元
他力の親鸞
この両者は、何が違い、何が共通しているのか?
立松和平、最後の連続対談
五木寛之「立松和平追想」併録
この『親鸞と道元』は、立松さんも私も、かなり相手を意識して力を注いだ連続対談だった。
一見、共通点の少ない親鸞と道元をどう対比させて論を展開していくか。
最初は不安もあったのだが、実際に向い合ってみると、お互いに相手にしゃべる間を与えないほど話が白熱した。あらためて道元を勉強してみようと決心させられたほどだ。
――五木寛之「流されゆく日々」より
著者の言葉
五木寛之
『親鸞と道元』の内容は、長い長い立松和平さんとの縁のなかから、自然に浮かびあがってきた主題である。
この1冊のなかでふれているように、親鸞と道元の立場は大きくちがう。それにもかかわらず、宗教の根本精神において両者は火花を散らせてスパークする一瞬がある。
それは究極の救いと悟りを、人間と宇宙の深い闇を照らす光として直感している点である。親鸞は「無碍光(むげこう)」という。道元は「一顆明珠(いっかみょうじゅ)」という。両者はそこに全宇宙と自己とが無限の光にみたされる瞬間を思い描くのだ。
この連続対話は、エンドレスな語りを想定してはじまり、立松和平さんの死とともに終わった。