献木10万本、勤労奉仕のべ11万人、完成は――150年後。
いざ造らん、永遠につづく森を――
明治天皇崩御(ほうぎょ)直後、
東京から巻き起こった神宮造営の巨大なうねり。
日本人は何を思い、かくも壮大な事業に挑んだのか?
直木賞作家が、明治神宮創建に迫る書下ろし入魂作!
「ただ、かくなる上は、己(おの)が為(な)すべきことを全(まっと)うするだけです」
明治45年7月、天皇重体の情報を掴(つか)んだ東都(とうと)タイムスの瀬尾亮一(せおりょういち)は、宮中の大事が初めて庶民の耳目に晒(さら)される状況に記者魂を揺さぶられる。快復を願う万余の人々が宮城(きゅうじょう)前に額(ぬか)ずく中、天皇は崩御(ほうぎょ)。直後、渋沢栄一(しぶさわえいいち)ら東京の政財界人が「御霊(みたま)を祀(まつ)る神宮を帝都に創建すべし」と動き始める。一方、帝国大学農科大学講師の本郷高徳(ほんごうたかのり)は、「風土の適さぬ地に、神宮林にふさわしい森厳崇高(しんげんすうこう)な森を造るのは不可能」と反論。しかし、曲折の末に造営が決定すると本郷は、取材をする亮一に“永遠に続く杜(もり)”造りへの覚悟を語った。やがて亮一も、一連の取材で芽生(めば)えたあるテーマに向き合うことに…。